「ピアノでアートセンスを育む」という昨年からの取り組みの流れで、新国立美術館で行われている企画展を見てきました。前から気になっていたこちら。3月にピアノコンサートした時のタイトルが「光の音、水の色」でした。そんなこともあり美術の光表現にもとても興味があります。
ドビュッシーなど大好きな印象派は水や光を絵画中に表現したことはコンサートの中でも解説として触れていますが、それ以外の時代にはそれ程までに直接的に光を意識した表現をした音楽(タイトル)はあまりありません。バロック音楽が光と闇などの二元性を表現しているということはありますが。
こちらはターナーの作品。細部は描かずに光の表現に特化していて後の印象派の先駆けとされるものです。
こちらはモネ。連作の一つです。音楽では18世紀の啓蒙主義時代のモーツァルトの様な輪郭のはっきりした明るい古典から19世紀後半にかけて作曲家自らの表現であったり、曖昧さが追加されていきますが、美術も同じような道を辿っていることが実感できます。
特に絵画では写真が撮れるようになったことも大きいですね。写実的なら写真で充分とも言え、それ以外の表現が模索されていきます。
そこまでは歴史的にも解き明かされていることですし、自分は上のような世界観がとても好きなのですが、今回の目的はそうではなくこちらの様なもの。
光をテーマにした現代美術も多く展示されています。「ピアノでアートセンスを育てる」という課題から、その必要なセンスとは何かというと創造性であったり、課題を見つける力、曖昧さの許容、ひらめきだったりする中で、ではそもそも現在のアートの位置を体感しに来ました。
この作品は、葉が揺れ動いたり、鳥たちが興奮したりする秩序のない光景をストップモーションで捉えた様な作品で「ぶら下がったかけら」とタイトルがついています。
その他にも蛍光灯を並べた作品や、細い廊下などがあり、それぞれにメッセージ(意図)が含まれています。こちらは「星くずの素粒子」。光と色が特定の環境下で人間の知覚にどのような影響を及ぼすのかをテーマとしているとのこと。
この様な現代アートを見て感じたのは、重要視されているのは作品そのもの以上に、作品で表現されているメッセージや伝えたい内容あるいは革新性であって、作品そのものの価値は昔と比べて低下している様にも思いました。
昔も当時はそうだったのかなとも思いつつも、でも絵画にしても高度な技術が使われていることは確実でやはり、美しさを感じるし、培われた技術によって表現されることに価値があるとも思います。
コンセプトやメッセージの方が重視されるというのでは表現手段は何でも良いこととなってしまうのがなんか釈然としないものを感じる部分です。自分の意見表明=アートとなっている様で、やはり自分としては美しいと感じるものをアートと呼びたいです。